日清海戦冩真集
写真集は木箱(縦40.0cm、横30.8cm、高さ8.8cm)に納められています。写真集の大きさは縦26.8cm、横35.0cmです。写真の大きさは縦21.0cm、横25.2cmです。
写真は鶏卵紙にプリントされて台紙に時系列順に貼付されています。台紙には手書の書き込みがあります。
写真集寄贈者は西原友忠、撮影者は西京丸1等機関手 清水為政です。
「日本郵船七十年史」の「船長機関長として在職十五年以上の退職者」(p.659-663)の機関長の部に「清水為政」の記載があります。
また、西原友忠は東京商船学校航海科第5期卒業生です。これ以外、両名の消息は不明です。
名称が台紙に記入されていない写真があり、調査して[ ]内に記載しました。
以下に写真の理解を高めるために日清戦争海戦略史を掲載しました。
日清戦争海戦略史
- 明治27(1894)年5月 朝鮮では東学の武装蜂起が起った。
- 明治27(1894)年6月 日清両国の軍隊が朝鮮半島で対峙した。
- 明治27(1894)年7月25日 朝鮮半島西岸沖の「豊島沖の海戦」
日本連合艦隊第一遊撃隊、「吉野」「秋津洲」、「浪速」。
清国海軍、「済遠」「広乙」「操江」英国商船旗を掲げた「高陞号」。
日本 「吉野」「秋津洲」は軽微な損害。
清国 「広乙」は炎上して陸岸に擱座、「高陞号」撃沈。
- 明治27(1894)年8月1日 日清両国は互いに宣戦布告を行った。
- 明治27(1894)年9月17日 「黄海海戦」
日本連合艦隊本隊 「松島」「千代田」「厳島」「橋立」「比叡」、日本連合艦隊第一遊撃隊 「吉野」「高千穂」「秋津洲」「浪速」、砲艦「赤城」、仮装巡洋艦「西京丸」。
清国北洋水師(艦隊) 「定遠」「鎮遠」「致遠」「靖遠」「経遠」「來遠」「済遠」「広甲」「超勇」「揚威」、巡洋艦「平遠」、広東水師(艦隊) 水雷巡洋艦「広丙」、砲艦2隻、水雷艇4隻。
日本 「比叡」「赤城」「西京丸」は戦闘力を失い戦場離脱、「松島」は火災を発して主砲は使用不能となり、前部の船体上部が破壊されたため戦列離脱。
清国 「超勇」「致遠」「経遠」沈没。「広甲」「揚威」座礁。「定遠」「鎮遠」「來遠」旅順に逃れるも大損害を受けた。「済遠」「靖遠」「平遠」「広丙」修理を必要とする状態。
黄海海戦の勝利により黄海海域の制海権が日本側のものとなった。
- 明治27(1894)年10月24日 大山巌大将指揮下の日本軍第2軍が大連の東、花園口に上陸。
- 明治27(1894)年11月22日 旅順口を占領。金州半島全域を日本軍が支配した。
- 明治28(1895)年2月5日 日本連合艦隊は水雷艇部隊を威海衛湾内へ突入させて魚雷攻撃をする作戦を決行した。清国北洋水師(艦隊)の「定遠」は大破して座礁、「來遠」転覆、「威遠」「宝筏」撃沈。
- 明治28(1895)年4月17日 下関で講和条約調印、日清戦争終結。
撮影者清水為政が乗船した西京丸について
西京丸は日本郵船創立後最初の新造船としてイギリスで建造された。
西京丸は日清戦争開戦後、ただちに徴用され、巡洋艦代用に改造された。
軍令部長樺山資紀が幕僚5名とともに乗船し、戦況視察の目的を以て「黄海海戦」に出撃した。日清戦争後、上海航路に復帰した。西京丸は乗客に人気を博した。
なお、小林清親に「海洋島沖西京丸奮戦之圖」と題する錦絵があります。
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