| 東京海洋大学「海の日」記念行事 明治丸所蔵資料等他公開 展示目録(和船資料) |
| 展示番号 | 資料名等 / 著者等 | 刊行年 | 刊又写 | 解説 |
| 和船 1 | 和漢船用集 | 明和3年 [1766] |
刊 | 大阪の船匠金沢兼光が著述刊行した和漢の船に関する十二巻の事典的大著。ただし漢(中国)の部は、『武備志』からの転載で、内容は和船が主である。1-2巻は舟の起源・丸号・造船儀礼・船玉神のことなどを記し、3-7巻は海船・川船・御座船・江湖船・猟船・軍船などに分類して古今の各種船舶を説明する中核部。8巻は詩歌にでる船、9巻は宝船などでさして重要ではないが、10-12の3巻は関船を主体に船体各部と舵・帆・綱具などの道具類といった実際面を克明に解説する。 (出典:『日本古典文学大事典』) |
| 和船 2 | 和漢三才図会 巻33車賀類 巻34船橋類 |
正徳2年 [1712] |
刊 | 105巻首1巻目1巻81冊。事典。寺島良安著。明の『三才図会』にならった、和漢にわたる図解百科事典。3部105部門に分ける。天部では天文、天象・暦占など、人部では人倫・親属・官位などのほか獣禽魚類の類、地部では土地・山水の類や、中国地誌、日本総地および国内各地の地誌、木菓草穀や造醸にまで及ぶ。各項につき、図解に続いて、漢名・和名・唐音等を挙げ、簡潔な解説を行っている。本資料巻33車賀類、巻34船橋類は、人部にある。 (出典:『国史大辞典』) |
| 和船 3 | 漂流記 / 播州彦藏 | 文久3年 [1863]序 |
刊 | 彦蔵は、天保7(1836)年播州濱田村に生まれた。 嘉永3(1850)年9月、上方へ航行中の栄力丸が大王崎で漂流、12月にアメリカ船オークランド号に救助され、サンフランシスコに着いた。 嘉永5(1852)年3月、軍艦セントメリー号に乗り、帰国の途についた。 しかし、香港まで来たが事情により、彦蔵と治作と亀蔵の3人は再び渡米し、嘉永6(1853)年6月サンフランシスコに着いた。 税関長サンダースの庇護のもと、アメリカで成人した。 安政6(1859)年、彦蔵はアメリカ領事ハリスの通訳官として帰国した。この後のことは、「アメリカ彦蔵自伝」に詳しい。 本書は漂流、アメリカでの生活、共和政治の由来、法律、訴訟制度、宗教及び教会、婚礼、祭日、遊戯、電信、汽車、鉄橋等の図解など、簡潔に要領よくまとめて紹介している。 普及度から見て、文明開化に先駆的役割をはたしたと言えよう。 |
| 和船 4 | 大日本土佐國漁師漂流記 / 鈍通子記録 | [江戸末期] | 刊 | 中浜万次郎 ジョン万次郎とも称す。文政11(1828)年土佐国幡多郡中ノ浜の漁師悦助の次男に生まれる。 天保12(1841)年正月5日西浜の伝藏ら4人と近海の漁に出て暴風のため太平洋を漂流、13日鳥島に漂着。 半年後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救われ、ハワイで4人と別れ、船長ホイットフィールドと東海岸ニュー・ベッドフォードに上陸、フェアヘイブンで小学教育を終了した。 ハワイに戻り、伝藏親子と帰国準備をし、嘉永4(1851)年正月琉球摩文仁間切に上陸、8月鹿児島に送られ、9月長崎で尋問を受け、嘉永5(1852)年6月土佐藩に引き渡され、10月中ノ浜に帰った。本書は、この漂流の記録である。 江戸時代に、漂流記を公刊することは憚かれていたので、木版で刊行されたのは、 「満次郎漂流記」、「ジョセフ彦蔵漂流記」、「南海紀聞」、「南瓢記」、「海外異聞」の5篇だけである。 |
| 和船 5 | 和磁石(“逆針”さかばり) | 制作年不明 | 方位目盛は時計回りに「子、丑、寅、・・・」と十二支が刻まれているが(これを本針という)、この「逆針」は逆の反時計回りに刻まれている。使用方法は磁石の子・午(北・南)を船の船首尾船に合わせておけば、針の向く方向が船の進行方向になるというものである。 | |
| 和船 6 | 蒸気船之図 | 書写年不明 | 写 | 「嘉永六年癸丑六月三日相州浦賀江到来ス」と記している。嘉永6年(1853年)は、アメリカ合衆国の海軍所属の東インド艦隊艦船が、江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航した年と符合し、その時、書き写した異国船と思われる。 |
| 和船 7 | 倭寇圖巻(複製版) | 昭和49年 [1974] |
刊 | 倭寇の風俗を描写した絵画史料で現存するものはきわめてすくない。『倭寇圖巻』は、その点ではほとんど唯一と称してもよいもので、きわめて貴重な存在である。書肆文堂の手で、中国より日本にもたらされて東京大学の所有に帰し、関東大震災にも第二次大戦にも災厄をまぬがれたのである。旧題には「明仇十州台湾奏凱図」とある。明仇十州とは、明時代の著名な画家仇英のことで、十六世紀前半人物画に麗筆をふるった。しかし、この旧題はおそらく後人のつけたもので、筆者は仇英であるということも、場所が台湾であるということも、奏凱というもとも当を得ていないであろう。けれども画法の点からみれば、明末に成立した図巻であることは間違いないようである。 天地三二センチメートル、全長五二二センチメートルの長巻で、絹本着色の逸品である。画面は、倭寇船団の出現、上陸、形勢の観望、掠奪放火、明人の退避、倭寇と明官兵との接戦、勝報、明官兵の出撃、という順序で展開する。日本の絵巻にみられるような物語性をもった画面展開であるが、日本の絵巻の詞書に相当する部分はない。 (田中健夫著『『倭寇図巻』について』より) |
| 和船 8 | 舩廼起 | [南北朝時代] | 古写本 | 我が国船の起源に触れた珍しい資料である。現在、本資料以外の存在は確認されていない。文中には以下の4図がある。 第1図 垂仁天皇三年の船の起こりの象図 第2図 神武天皇乗御廼船 第3図 日本武尊東夷征伐之乗御船 第4図 神功皇后三韓征平之神教杉船 元奥書には白鳳八年(680)、承和五年(838)年、承安元年(1171)の年号がある。極状には「五百年程の保有を了知せられ」とある。慶応二年(1866)の五百年前は南北朝時代(1336-1392)にあたる。 |
| 和船 9 | 寳船集 / 井上和雄編 | 大正8年 [1919] |
刊 | あとがきに「知己廣瀬菊雄氏、年来寶船の図を蒐集して其の数今や半千近し、偶ま平和の新春を迎ふるに際し、聊か記念的にその図譜を公刊せむとて、図の選定及び解説の事を予(井上和雄)に委嘱せる」とあり。 |
| 和船 10 | 引札(各種展示) | 各刊行年不明 | 刊 | 江戸時代以降、商店が開店や商品売出しを宣伝するために配るふだ。江戸時代初期までは「報条」「札まわし」「口上(書)」「目録(書)」などと呼ばれた。十八世紀中ごろ引札の語が生まれた。『近世風俗志』には、江戸では「引札」と呼ぶが、京坂では「ちらし」と呼んだと記されている。商店の宣伝が活発となる条件としては、城下町における商品販売が、武士を相手とするだけではなく、一般庶民をも対象とするようになったことがあげられる。十八世紀の江戸では、商品の広告文を文人に依頼したり、作品に引用してもらったりすることも行われた。平賀源内が歯みがき「嗽石香」の口上を作ったのは、明和六年(1769)であった。安永四年(1775)には「清水餅」の口上を作成している。以後、山東京伝・曲亭馬琴・式亭三馬・柳亭種彦・為永春水・烏亭焉馬なども各種の引札を作っている。明治以後も引札は盛んに利用され、近代の広告へ引き継がれていくのである。 (出典:『国史大辞典』) |
| 和船 11 | 和船(模型) | 制作年不明 | 小型の二丁櫓の和船模型。船の背骨に当たるキールや肋骨に当たるフレームが無く板で作られた箱の様なもので、東京湾の様な静かな海で使われた船である。 | |
| 和船 12 | 英吉利船図 | 書写年不明 | 写 | 江戸末期に日本に来航したと思われるイギリス船の絵図 |