西洋古地図 |
1.Carte d'Asie, dressée pour l'usage du roy(国王用に整えられたアジア全図)書誌事項
所蔵
地図内の※カルトゥーシュに書かれた説明文
アジア地図、世界のこの地方にある君主国を難なく見つけられるようにアルファベット順の索引を付けた。主要都市の索引、アジア史を知るための若干の註記を持つ。 解説地図製作者はギヨーム・ド・リール (1675-1726)で、1723年の作とされているが、恐らくは1730年の死後出版であろう。解説者が翻訳に携わっているG・T・レーナル(1713-1796)の『両インド史』(全19巻)に掲載されたアジア全図(1760年代に作成)よりも、正確さにおいて明らかに劣るので、1730年以降に出回ったアジア地図と考えられる。 シベリア、北極海が正確でなく、アムール河がアムール海になっている。1689年にネルチンスク条約が結ばれ、アムール河流域の国境確定が清国とロシア帝国との間で行われた時には、イエズス会士が交渉の前面に立ったので、この付近の地図は、彼らの手で詳しく描かれるようになった。また、この地図には、アムール河中流のネルチンスクという都市名(Nerezin ou Nipchou)がロシア語式の表記(Nerezin)と中国語式の表記(Nipchou)で記載されているが、それは、ここが清国、ロシア双方にとっての交渉場所だったからである。 地図中、TARTARIEとは、タルタリアつまり「タタール人の国」のことで、モンゴル系諸民族の国、満州族の国、チャガタイ汗国、キプチャク汗国など、イル汗国を除いてチンギス・ハーン一族の遠征時代に獲得された領土と元の領土は、西洋人によって、すべてこう呼ばれたのである。黒海付近にも「小タタール」との地名があるが、これもモンゴル系民族が占領したことに由来する。13世紀以降の話である。タルタリアの四地域分類については、三番目の地図の解説を参照。 右下にモルッカ諸島が詳細に記載されているのは、17世紀にオランダ人がここに香料を求めて進出してきたからであり、同じくインドのインド洋及びベンガル湾沿岸都市が詳細に記載されているのも、ヴァスコ・ダ・ガマがカリカットに到着(1498)して以降、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスがここに進出してきたことによる。 アラビア半島沿岸、紅海の諸都市が詳しく記載されているのは、ポルトガルがこの地方に、同じく16世紀のはじめに進出してきたことによるのであろう。 カスピ海とアゾフ海へ大河(現在のアムダリア河とスイルダリア河)が流れこんでいることがはっきりと記されているが、それは、両方の河にそって、ロシアとイギリスが共同開発したインドのムガール帝国への貿易路があったからである。インドへの海路は有名であるが、オスマン帝国領を避けてロシア周りでインドに向かう陸路も開発されていたことは、意外と知られていない。とはいえ、両河川についての正確な認識はなく、アムダリア河はカスピ海に流れ込んでいるように描かれている。 北極海は、氷海(Mer Glaciale)と記されており、左側に白海(Mer Blanche)が見えるが、スカンディナヴィア半島を迂回して、ここまでは、ヨーロッパの貿易船がモスクワへの最短航路として出入りしていた。船荷は小さく分けられ、モスクワめざして、ドヴィナ河から運河を遡ったと言われている。また、ロシアは北極海周りでインドへ進出することを考えて航路の開発に努めていたことも余り知られていない。 (文:大津眞作) |
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