海陸道中圖繪 : 大坂より下の関まいる : 全 / 玉蘭齋画
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書誌事項
海陸道中圖繪 : 大坂より下の関まいる : 全 / 玉蘭齋画
東都 [江戸] : 金幸堂 , 元治1 [1864]自序
[25]丁 ; 18.1×12.2cm
和漢古書につき記述対象資料毎に書誌レコード作成
書名は題簽による
見返しの書名: 海陸道中圖繪 : 大坂より下の関まいる
序文末に「于峕甲子乃初冬 / 橋本玉蘭齋老父誌」とあり。玉蘭齋は文化4(1807)年生まれのため、元治1(1864)年刊行と推定される
見返しに「東都 金幸堂板」とあり
ノド丁付(全丁)に「海陸初」とあり
彩色、袋綴
蔵書印1印あり
所蔵
東京海洋大学百周年記念資料館寄託資料 (東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵資料)
請求記号: Ai/1243/B
資料番号: 50000023296
解説
瀬戸内海の海路は昔から発達した所である。豊臣秀吉が大坂を根拠地としたため、九州地方の大名が海路大坂に往還するものが多かった。
江戸時代には、大坂は関西方面の物資の集積地であり、長崎とは商船の往来が多かった。また、九州の大名は、参勤交代のため、海路を利用するものが多かった。
本書は大坂、尼ヶ崎、西の宮、兵庫、須磨の浦、明石、高砂、室、白石、鞆、御手洗、上の関、室積、笠戸、馬島、向島、本山、長府、下の関の海路が描かれている。しかし、船の針路、繋留場所、水深、潮流の方向等の記述がなく、実用的ではない。
橋本玉蘭齋は文化4年(1807)に生まれた、通称は兼次郎、謙で、歌川貞秀、橋本貞秀、玉蘭齋、と号した。江戸亀戸天神前に住居、のち、横浜、深川にも住居した。三世歌川豊国の国貞時代の門人。美人画、武者絵、風景画、団扇絵を能くし、鳥瞰式精密描写の一覧図を得意とした。
慶応2年(1866)、パリ万国博覧会に出品を命じられた際、歌川芳宗とともに浮世絵師の総代を勤めた。