魯西亞國舩渡來記


書誌事項
魯西亞國舩渡來記 2巻
[書写地不明] : [書写者不明] , [書写年不明]
2帖 ; 23.4×16.7cm
和漢古書につき記述対象資料毎に書誌レコード作成
写本
書名は題簽による
丁数: 乾: 77丁、坤: 44丁
坤の巻末に「文化五辰年二月需之冩 泉漲堂藏書」とあり
蔵書印3印あり

所蔵
東京海洋大学百周年記念資料館寄託資料(東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵資料)
請求記号: Ai/1097.1/B,Ai/1097.2/B
資料番号: 50000008619,50000008620

漂流事情
寛政4(1793)年12月、陸奥国石巻の若宮丸が江戸へ航行中に仙台沖で漂流、寛政5(1794)年5月、アリューシャン列島に漂着した。
ロシア人にヲホツカという所へ連れて行かれた。その後、ヤコウツカに連れて行かれた。ヤコウツカで市五郎が病気になり死亡した。
寛政8(1797)年正月、エリコウツカに着いた。ここで働きながら8年程在留した。その間、吉郎次が病気になり死亡した。
享和3(1803)年3月、漂流民をロシアの都に連れて行くことになった。左太夫と清蔵が病気になったのでエリコウツカに残した。
旅の途中で銀三郎が病気になったのでペーリマに残した。4月17日、ロシアの都ビゼリボルカに到着した。5月16日、ロシアの女王に拝謁した。
女王から、日本帰国の希望の有無を聞かれ、左平、津太夫、儀兵衛、太十の4人は帰国を希望した。残りの6人はロシア在留を望んだ。
6月、ロシアを出発した。イギリスに立ち寄り、大西洋を横断し、南アフリカを迂回し、太平洋に出た。途中ハワイに立ち寄った。
文化1(1804)年7月、カムチャッカに到着した。9月長崎に着いた。11月ようやく上陸できた。12月太十が発狂し、自殺を図った。
その後、太十は口がきけなくなった。文化2(1805)年故郷へ帰ることを許された。
この漂流の有名な記録が大槻玄澤の「環海異聞」である。