海外異聞 / 靄湖漁叟撰并書

巻之1 巻之2 巻之3

書誌事項
巻之1
巻之2
巻之3
海外異聞 5巻 (存3巻) / 靄湖漁叟撰并書||カイガイ イブン
見返しの書名:海外異聞 : 一名亞墨利加新話||カイガイ イブン : イチメイ アメリカ シンワ
[出版地不明] : 青園 , 嘉永7 [1854]
3冊 ; 25.2×17.3cm
書名は題簽による
巻之4, 巻之5を欠く
巻之1の見返しに「海外異聞 一名亞墨利加新話 全部五巻 嘉永甲寅歳季冬新鐫 青園壽櫻」とあり
印記: 「片山蔵書」、「漂譚樓」(石井研堂)
石井研堂漂流記コレクション
本書は石井研堂の旧蔵本である。「漂流記本目録」によれば5巻全冊所蔵していたが、現在は巻之1-3しかない。

所蔵
東京海洋大学百周年記念資料館寄託資料 (東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵資料)
請求記号: 295/A25/1B,295/A25/3B,295/A25/3B
資料番号: 2014505993,2014506000,2014506019

漂流事情
天保12(1841)年11月、摂津国の中村屋伊兵衛船栄寿丸は奥州へ向かう途中、犬吠岬で漂流した。
乗組員12人(善助、弥市、初太郎、太吉、伊之助、儀三郎、惣助、七太郎、万蔵、要蔵、岩松、勘次郎、三平)であった。
漂流二ヶ月を過ぎると、船中の人気も悪くなり喧嘩口論の止むことがなかった。
天保13(1842)年、漂流中の奥州岩城の観音丸と出会ったが、翌朝には観音丸の姿はなかった。
天保13(1842)年2月、イスパニア船のエンサヨー号に救助される。始めのうちは日に三度食事 を与えられたが、後には2食にされ、昼夜となく酷使された。
天保13(1842)年3月の真夜中に善助、弥市、初太郎、太吉、伊之助、儀三郎、惣助の7人が無理にメキシコのカリフォルニア半島に上陸されられた。
残りの七太郎、万蔵、要蔵、岩松、勘次郎、三平の6人を乗せてイスパニア船は行ってしまった。
上陸したのはサンルスカという所で、サミセンテを経てサンホセに送られた。意外にもイスパニア船の七太郎と万蔵が上陸していて、上陸した漂流民は9人となった。
その後、善助はパス、マサトラン等に流寓し、やがて初太郎と共に広東に送られて、天保14(1843) 年に長崎に帰着した。
弥市は天保15(1844)年にマカオに向かうイスパニア船に便乗し、マカオに着いた。
その後、香港、舟山島、寧波を経て乍浦に着いたのは、弘化2(1845)年2月であった。
太吉、伊之助、儀三郎の3人は、マニラ行きのドイツ船でマサトランを出港した。
マカオに着き乍浦をめざすが途中の寧波で、宝順丸漂流民の岩吉と会うと儀三郎はにわかに帰国を翻意してマカオに戻ってしまった。
太吉と伊之助は弘化1(1844)年12月に乍浦に着いた。
弘化2(1845)年6月、合流した弥市、太吉、伊之助の3人は清国貿易船で長崎に帰着した。
マサトランに残った七太郎、万蔵、惣助の3人のその後の消息は不明である。
エンサヨー号に残された要蔵、岩松、勘次郎、三平の4人については、マサトランで弥市が三平に出会ったという挿話がある。
三平の話によると、エンサヨー号はグァイマス付近で難破して4人は身柄を解放された。要蔵、岩松、勘次郎の3人はハキバイラという地に向かった。
三平のみ、瀬取船に雇われてマサトランにやってきた。
日本に帰国:善助、初太郎、弥市、太吉、伊之助
マカオ在留:儀三郎
マサトラン在留:七太郎、万蔵、惣助、三平
ハキバイラに向かう:要蔵、岩松、勘次郎

この漂流事件に関して、徳島藩主蜂須賀斉裕が同藩の漂流者初太郎を庭前に召して、侍臣に漂流の次第を尋問せしめ漂流記の編纂を命じた。
天保15(1844)年に藩主に献上したのが「亜墨新話」である。嘉永7(1854)年に那波希顔の識語と前川文 の序文を削って「海外異聞」と名づけられて刊行された。
しかし、本文も省略や誤記が多く粗雑な本である。

亜墨新話の原本は1950年の徳島県立図書館の火災で焼失した。

亜墨新話の序文の著者、那波希顔は鶴峯と号した。藩儒であり、学問所の教官でもあった。
編者の前川文蔵は、秋香と号し奥向きの御儒者だった。もう一人の編者の酒井貞輝は、蜂須賀斉昌にその才能を買われて士分に引き上げられた。
地図作製の小出長十郎は数学者である。多数の挿画を描いた守住貫魚は阿波藩における住吉派の第一人者であり、阿波藩の御絵師として召しかかえられた。

本件に関しては、詳細な現地調査を行った佐野芳和の「新世界へ : 鎖国日本からはみ出た栄寿丸の十三人」(法政大学出版局 , 1989)がある。