漂民蠻話 : 完 / 翠羅堂禾恵誌

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書誌事項
漂民蠻話 : 完 / 翠羅堂禾恵誌
[書写地不明] : [書写者不明] , 嘉永7 [1854]写
[14]丁 ; 24.0×17.4cm
和漢古書につき記述対象資料毎に書誌レコード作成
写本
書名は書き題簽による
扉の書名: 漂民蠻話
巻末に「嘉永七寅年四月武州川口宿・・・写之」とあり
裏表紙裏に石井研堂の識語あり
印記: 「漂譚樓」 (石井研堂)


所蔵
東京海洋大学百周年記念資料館寄託資料(東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵資料)
請求記号: 290.9/H99/B
資料番号: 2014504571


漂流事情及び解説
嘉永3[1850]年1月9日、紀伊国日高郡の和泉屋庄右衛門船、天寿丸(乗組員13人)が江戸から上方へ航行中に伊豆沖で漂流した。
3月13日にアメリカ捕鯨船ヘンリー・ニーランド号に救助される。乗組員13人のうち、6人(長助、辰蔵、太郎兵衛、清兵衛、与吉、半六)はロシア捕鯨船マレンゴ号に移された。残された7人(虎吉、菊次郎、市蔵、吉三郎、佐蔵、新吉、浅吉)のうち、2人(新吉、浅吉)が捕鯨船ニムロッド号に移された。
ヘンリー・ニーランド号がホノルルに入港すると、間もなくニムロッド号の2人もホノルルに入港した。5人は9月に天保12(1841)年に漂流した土佐の漁民万次郎ら4人に会った。
11月にアメリカ船コッヘシ号でホノルルを出航し、嘉永4[1851]年2月に香港へ入港した。3月に天保6(1835)年に漂流した肥後の庄蔵に会った。6月に天保3(1832)年に漂流した尾張の宝順丸の音吉に会った。5人(虎吉、菊次郎、市蔵、吉三郎、佐蔵)は清国船で11月11日に乍浦を出帆し、11月28日に長崎へ入港した。
また、マレンゴ号に移された6人はペテロパウロフスクやアヤンを経てシトカに送られた(途中で新吉と浅吉が合流)が、1人(半六)が病死した。
嘉永5[1852]年6月24日、7人(長助、辰蔵、浅吉、太郎兵衛、清兵衛、与吉、新吉)はメンシコフ号で伊豆下田に入港したが、韮山代官江川太郎左衛門が7人を受け取らなかったので、7人は6月29日に二隻の小舟で伊豆中木浦に漕ぎ着けた。下田を経て江戸へ護送され、嘉6[1853]年1月に故郷へ帰った。

本書は嘉永6(1853)年、江戸に下った天寿丸漂流民の太郎兵衛と菊次郎の話を浦賀の翠蘿堂禾恵がまとめた漂流記を嘉永7(1854)年に写した資料である。

巻末に「この一行の漂流始末は、嘉永三戌年正月□洋外舩に救出されて後、九助、菊次郎、佐藏、吉松、市楠、浅吉、新吉(後乙組に合す)、太郎兵衛、辰藏、長助、清兵衛、文吉、半六、浅吉、新吉の二組に分れ、甲組ハ四年十一月長崎に帰着し、乙組ハ五年六月豆州中木濱に帰着せり、太郎兵衛の手記二冊、別に蔵す、それハ露和對訳書と下田にて糾明を受けたる記あり、旧記録書、二組に分れたることを些も記さず、この蠻話を参照して得る所多し、又魯領に畄りし侭に帰らざりし一人甚蔵の名、この蠻話に佚す 石井研堂識」とあり