神昌丸漂民記
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書誌事項
神昌丸漂民記
[書写地不明] : [書写者不明] , [書写年不明]
[51]丁 ; 24.2×17.0cm
和漢古書につき記述対象資料毎に書誌レコード作成
写本
書名は表紙墨書による
印記: 中山文庫
所蔵
東京海洋大学百周年記念資料館寄託資料 (東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵資料)
請求記号: 290.9/S 5/B
資料番号: 50000111599
漂流事情
天明2(1782)年12月、伊勢国白子村の神昌丸(船頭光太夫(幸太夫とも書く))は駿河沖で暴風のため漂流、
翌年7月、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。
漂流中幾八が死亡した。この島は不毛の地であったため、在留四ヶ年余の間に7人が病死した。
ロシア毛皮商人の好意により、残った9名はカムチャッカに渡った。しかし、飢饉で食糧乏しく、栄養
不良で与惣松、勘三郎、藤蔵が死亡した。
天明8(1788)年、カムチャッカを出発して、オホーツク、ヤクーツクをへて、寛政元年(1789)年、イルクーツクに到着した。
光太夫一行は、ロシア政府へ帰国許可の願書を出すこと三度に及んだが、許可の通知がこなかった。この間、九右衛門が死亡した。
キリル・ラックスマン教授は用務が出来たのを利用して、光太夫を伴い上京した。寛政3(1791)年2月19日ペテルスブルグに着いた。
女帝カテリナ二世に謁見を許されたのは5月28日のことであった。ペテルスブルグ滞在は九ヶ月余りに及んだ。
ついに帰国の許可を受けることに成功し、寛政4(1792)年1月イルクーツクへ帰着した。漂流民6名の内、1名はイルクーツクで死亡した。
生き残った光太夫、庄蔵、磯吉、新蔵、小市のうち、庄蔵、新蔵は病気のため、ロシアに残った。
寛政4(1792)年9月3日、光太夫、磯吉、小市の3人だけが根室に着いた。しかし、寛政5(1793)年4月2日、小市は根室で抑留中に病死した。
寛政5(1793)年9月、吹上御殿において将軍家斉は自ら光太夫、磯吉を引見した。
神昌丸漂流の記録は多数あるが一番有名なのが「北槎聞略」である。