呂宋國漂流記
「昭和十三年二月 積成會寄贈」本
「昭和十四年六月 森下晋二氏寄贈」本
書誌事項
積成會寄贈本
呂宋國漂流記 / 大槻清崇記||ルソンコク ヒョウリュウキ
[書写地不明] : [書写者不明] , [書写年不明]
[18]丁 ; 23.2×16.6cm
和漢古書につき記述対象資料毎に書誌レコード作成
書名は表紙墨書による
写本
朱墨の書き入れあり
東京海洋大学百周年記念資料館寄託資料 (東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵資料)
ラベル: 5010/194/5
請求記号: Ai/1229
資料番号: 50000021981
森下晋二氏寄贈本
呂宋國漂流記 / 大槻清崇記||ルソンコク ヒョウリュウキ
[書写地不明] : [書写者不明] , [書写年不明]
[23]丁 ; 24.4×17.2cm
和漢古書につき記述対象資料毎に書誌レコード作成
書名は表紙墨書による
写本
虫損、保存状態よくなし
東京海洋大学百周年記念資料館寄託資料 (東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵資料)
ラベル: 5010/194/4
請求記号: Ai/1229.2
資料番号: 50000023594
解説・漂流事情
本書は仙台藩の住民が漂流した次第を、帰国後、仙台藩の江戸藩邸において、藩主の命をうけ、大槻清崇(磐渓)が編集したものである。
天保12(1841)年10月、陸奥国の観音丸(観吉丸)が江戸へ航行中、九十九里浜沖で漂流、天保13年7月にフィリピン群島中のサマル島付近の小島に漂着した。
観音丸は450石の米を積んでいたため、水の欠乏には苦しんだが、食糧には困らなかった。
フィリピン人に助けられ、「カジバラ」に2ヶ月在留ののち、マニラに着いた。
マニラに1ヶ月滞在した。澳門に着いた。阿片戦争の余波をうけ、日本への送還のこともなかなか捗
らなかったが、天保14(1843)年12月、長崎へ帰着した。
大槻磐渓
名を清崇、字を士広、号して、磐渓、江隠などと称した。享和元年(1801)5月15日、大槻玄沢の次男として江戸に生まれる。
初め、井上四明に師事、16歳で昌平坂学問所に入り林述斎に学ぶ。天保3(1832)年、仙台藩江戸藩邸の侍講となる。
大塚同庵に入門して西洋砲術を研究し、開国論を唱えた。文久2(1862)年仙台に移り、藩校養賢堂の学頭副役となる。
明治2(1869)年、佐幕の側に立ったことにより入獄、明治4(1871)年、出獄、明治11(1878)年6月13日逝去。