漂流記
漂流記 : 永壽丸、督乗丸、神昌丸. 上
漂流記 : 神昌丸、幸太夫、磯吉. 下
書誌事項
漂流記 : 永壽丸、督乗丸、神昌丸 2巻
VT:OH:漂流記 : 神昌丸、幸太夫、磯吉
[書写地不明] : [書写者不明] , 文化5 [1808]写
2帖 ; 16.4×11.8cm
和漢古書につき記述対象資料毎に書誌レコード作成
写本
書名は上の表紙墨書による
下の表紙墨書の書名:漂流記 : 神昌丸、幸太夫、磯吉
丁数:上:[82]丁、下:[47]丁
上の最終丁に「文化五戊辰三月廿八日寫之」とあり
下の最終丁に「文化五年二月下旬寫之」とあり
印記:「中山文庫」、「太田家中成瀬氏蔵」、「市村藏書」
所蔵
東京海洋大学百周年記念資料館寄託資料 (東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵資料)
請求記号: 290.9/H 6/1B,290.9/H 6/2B
資料番号: 50000111604,50000111605
漂流事情
永寿丸、督乗丸
文化9(1812)年12月、薩摩藩主松平豊後守斉興の手船永寿丸が江戸へ航行中に紀州沖で漂流した。漂流中に13人が病死した。
翌年9月24日に千島列島のハラマコタン島に漂着したが、6人が水死した。上陸後間もなく3人が病死した。
沖船頭喜三左衛門ら3人はアイヌ人に保護され、ペトロパウロフスクに送られ、その後、オホーツクに送られた。
悪天候のため、エトロフに近づけなかったので、9月にペトロパウロフスクに戻った。そこには尾張国船督乗丸の漂流民重吉ら3人がいた。
文化10(1813)年11月、督乗丸は、江戸から復航中に遠州灘で漂流した。漂流中に1人が水死し、10人が病死した。
文化12(1815)年2月にカルフォルニアのサンタ・バーバラ沖でイギリス商船フォレスタ号に重吉ら3人が救助された。サンタ・バーバラやシトカを経て、
ペトロパウロフスクに送られた。ここで永寿丸の漂流民と一緒になった。なお、督乗丸の記録は「船長日記(フナオサ ニッキ)」が有名である。
文化13(1816)年5月、2組6人の漂流民はパーウェル号で日本に向かった。航海中に督乗丸乗組員1人が病死した。
残りの5人は小舟でウルップ島に上陸し、エトロフ島に渡り、7月9日にエトロフ島シベトロの番所に出頭した。
神昌丸
天明2(1782)年12月、伊勢国白子村の神昌丸(船頭光太夫(幸太夫とも書く))は駿河沖で暴風のため漂流、
翌年7月、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。漂流中幾八が死亡した。この島は不毛の地であったため、在留四ヶ年余の間に7人が病死した。
ロシア毛皮商人の好意により、残った9名はカムチャッカに渡った。しかし、飢饉で食糧乏しく、栄養不良で与惣松、勘三郎、藤蔵が死亡した。
天明8(1788)年、カムチャッカを出発して、オホーツク、ヤクーツクをへて、寛政元年(1789)年、イルクーツクに到着した。
光太夫一行は、ロシア政府へ帰国許可の願書を出すこと三度に及んだが、許可の通知がこなかった。この間、九右衛門が死亡した。
キリル・ラックスマン教授は用務が出来たのを利用して、光太夫を伴い上京した。
寛政3(1791)年2月19日ペテルスブルグに着いた。女帝カテリナ二世に謁見を許されたのは5月28日のことであった。
ペテルスブルグ滞在は九ヶ月余りに及んだ。ついに帰国の許可を受けることに成功し、寛政4(1792)年1月イルクーツクへ帰着した。
漂流民6名の内、1名はイルクーツクで死亡した。生き残った光太夫、庄蔵、磯吉、新蔵、小市のうち、庄蔵、新蔵は病気のため、ロシアに残った。
光太夫、磯吉、小市の3人だけが帰国した。しかし、寛政5(1793)年4月2日、小市は根室で抑留中に病死した。
寛政5(1793)年9月、吹上御殿において将軍家斉は自ら光太夫、磯吉を引見した。
神昌丸漂流の記録は多数あるが一番有名なのが「北槎聞略」である。