豊長筑三領唐舩漂流之記
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書誌事項
豊長筑三領唐舩漂流之記
[書写地不明] : [書写者不明] , [書写年不明]
[56]丁 ; 27.4×20.2cm
和漢古書につき記述対象資料毎に書誌レコード作成
写本
書名は表紙の墨書による
研堂追記による目次: 寶永二年厦門唐舩長州六連島へ漂着之記、正徳五年福州舩長州六連島へ漂着之記、享保元年唐舩三領沖へ漂着之記
印記: 「漂譚樓」 (石井研堂)、「田中氏藏書記」
所蔵
東京海洋大学百周年記念資料館寄託資料(東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵資料)
請求記号: 290.9/H81/B
資料番号: 201450511X
漂流事情
北九州の眼前に拡がる玄界灘と響灘の海域は、各藩の領地が入り組んでいた。即ち、小倉藩は藍島と馬島を結ぶ一帯。長府藩は六連島と彦島に到る海域。
福岡藩は白島から志賀島を含む海域。蓋井島は萩藩の領地であった。四藩の領域が交錯する海域こそ、抜荷船にとって絶好の海域であった。
唐船追い払いの総指揮をとったのは小倉藩であった。
本書には、以下の事件が収録されている。
宝永2(1705)年7月、廈門出の唐船、長州六連島へ漂着の記
正徳5(1715)年11月、福州船、長州六連島へ漂着の記
享保1(1716)年、三領沖唐船漂流の記
なお、後書きによれば、宝永2(1705)年から享保2(1717)年までの三領の内、漂流の記録である。
これらは漂流ではなく、密貿易のために来た清国船であった。正徳5(1715)年、新井白石により、貿易制限の目的で「貿易新令」が布告された。
しかし、享保1(1716)年、新井白石の失脚したことにより、清国側では政策転換期と受け止め、清国船が大挙出現した。ところが政策転換とはならず、享保3(1718)年には、唐船焼打ちの強権発動が行われた。