筑前船漂流記
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書誌事項
筑前船漂流記
[書写地不明] : [書写者不明] , [書写年不明]
[66]丁 , 27.2×18.2cm
和漢古書につき記述対象資料毎に書誌レコード作成
写本
書名は書き題簽による
印記: 「中山文庫」

所蔵
東京海洋大学百周年記念資料館寄託資料 (東京海洋大学附属図書館越中島分館所蔵資料)
(閲覧の申し込み:東京海洋大学附属図書館越中島分館分館情報サービス係)

漂流事情
明和1(1764)年、筑前志摩郡唐泊浦の伊勢丸(乗組員20名)、津軽の材木輸送を請負い江戸へ航行中、十月十九日鹿島灘で漂流した。
明和2(1765)年正月漸く大きな島(ミンダナオ島)に漂着した。しかし、異形の土人百人余りに囲まれ、所持品などすべて略奪されてしまった。
土人に連れられてカラカンの酋長の許に送られて奴隷にされ農事に使役された。9名はこの地で死亡した。また、4名はどこかへ連れて行かれてしまった。
奴隷として転売されたと思われる。残る7名は船に乗せられ、ボルネオのソヲロクに転売された。ここで約1年間商船の水夫として使役された。
明和3(1766)年、孫太郎(孫七ともいう)と幸五郎はバンジェルマシンに連れて行かれ、残りの5人はソヲロクに止められた。途中で幸五郎は病死した。
孫太郎は華僑に買い取られ、他の奴隷とは区別され、家族に準じて取り扱われた。在留7年の間、主人についてヒヤアシヨというところに度々行き、原住民の奇習を見聞した。この原住民は恐らくダヤーク人であり、日本人でダヤーク人に会ったのは孫太郎が最初であると思われる。
孫太郎は色々理由をつけて主人に帰国を願い出た。遂に成功して、明和8(1771)年和蘭船に乗せられ、途中スラバヤに立寄り、ジャガタラで他の和蘭船に乗り換え、スマトラのバレンバンに寄港したりして、長崎に帰ることができた。時に明和8(1771)年6月16日であった。
孫太郎の漂流記録としては青木定遠により書かれた「南海紀聞」と「漂流天竺物語」がある。「南海紀聞」は学術的価値が高く、「漂流天竺物語」は文学的にかかれたものである。
石井研堂氏は「文学的価値あるものを挙ぐる時は、孫七天竺物語と督乗丸船長日記を双璧とすべく云々」と述べている。本書は「漂流天竺物語」の系列の漂流記である。